民主主義を問い直す
戦後、我々は学校で「民主主義は良いこと」、「民主主義ありき」と教えられ、私も「民主主義こそ人類が求めてきた約束の地」だと考えてきた。しかし、結局のところ社会科の教科書には「民主主義が何たるか?」が書かれていないし、「良いもの」とだけしか教えられていない。戦後民主主義とは何だったのか?
いまこそ、問うべきときはないのではないのか?
戦後世界の幻影
戦前、世界は「失業」と「デフレ」に悩まされ、これが帝国主義的な軍事的覇権主義の台頭を許し、「戦争」という「恐怖の公共投資」で解決してみせた。戦後世界はこの教訓からアメリカでは「雇用法」(1946)が成立、日本では3大民主化改革(1946-7)により、「失業」と「デフレ」は政府により解決されるべき社会的課題として認知されていく。これが高度成長の基盤になり、「中産階級」(村上泰亮)を生み、巨大な消費社会が誕生した。
しかし、この「豊かな社会」(ガルブレイス)の代償として「財政赤字」と「インフレ」(ブキャナン=ワグナーはこれは「民主主義のコストである」とした)を招聘し、1970年代以降フリードマンらの理論的支援もあり、「レーガニズム」、つまり「小さな政府」によって解決できると反駁したかに見えた。80年代の中曽根行革にもその思想は受け継がれた。
高齢化は財政破綻を招く?
先進国は「インフレ」こそ解決できたとはいえ、「デフレ」、されに「高齢化」こそが次代の課題として台頭している。「高齢化」は福祉財政の拡張を招来し、「財政赤字」の拡張をことごとく許している。民主主義社会では福祉予算のカットは受け入れられにくい。議員も選挙で争点の対象にしたくない課題としてしる。
モディリアーニのライフサイクル仮設によれば、福祉予算の膨張は将来増税の期待を生み、これが現在の消費を減らし、貯蓄を増やしている。貯蓄の増加は有効需要を冷やし、生産・雇用・所得を減らす。当然、税収も減少するなかで、行政コストの切り詰めは遅々として進まず、歳出だけが増えていく。結果財政赤字と、その結果として政府債務の累積である。
今必要なのは税収に見合った規模の政府であるのだが、それができない。いまこそ「高齢化時代」の「政府」を作るべきである。
景気対策より成長戦略を
3つ提案がある。まずは税収が増えないので、
(1)政府活動を小さくする。
公務員の数とその給与を減らし、福祉予算も減らす。年金の給付も引き下げる。かわりに高齢者に雇用の機会を提供する。退職年齢の引き上げ、賃金の年功スライドを抑制するのも一つである。しかし、人口構造が高齢者に偏る現代ではこれは難題であることは明白である。
(2)解雇規制の撤廃
何より問題なのは「正社員の解雇が難しい」ということである。ホワイトカラーの正社員は生産性が低い上に、生産性以上の給金を得ている。これは問題なのだが、労組の力や社員の勤労意欲向上もあり、なかなかホワイトカラーのクビ切はできない。まさに「社内民主主義」が「低生産性」と「報酬インフレ(デフレ時代では実質報酬は増えている)」をもたらしている。今必要なのは民間企業の構造改革、すなわち生産性の低い部門を切り捨て、経営資源(ヒト・モノ・カネ)を生産性の高い部門へのシフトである。
(3)高等教育の改革
有望な人の育成が急務である。初等教育の充実も必要だが同時に高等教育、大学、専門学校、大学院大学、研究所の研究活動も必要である。すべて学生には貸与でいいので無利子の奨学金を与え、有能な教員を充当し、勉学に集中できる環境を作ることが必要だ。怠惰な学生には退学勧告を行い、有能な学生には報奨金を与える。これは研究者も然りだ。勉学や研究が社会に役立てるよう奨励することがなによりも必要である。
ただ大学の研究者や学生を増やすのではなく、大学行政も取捨選択が必要である。学生や教員への評価を大学や外部機関が行い、この評価に基づく支援制度が必要である。評価の低い学生教員に退場を願うのは至極当然である。学生・研究者たちの反論があるかもしれない。しかし、自分の研究勉学に高い自信があるなら、自分で基金を募って研究すればいい。それだけのことである。
No comments:
Post a Comment