ムダな読書
米国に来て、小生いかにくだらない読書に時間を潰してきたものだと振り返る。
社会学者で評論家の清水幾太郎氏も読書に何度も挫折したと言うが、読書がいかに難しいことを改めて思い知らされた。
小生これまで古本屋で買っては売り、売っては買いの繰り返しで、せいぜい読書で活字に耐える訓練をしてきたようにしか思われず、何を読んできたのか覚えていない。
小生の書籍は主に経済政治関連のものが多いが、それらは余計な知識と情報の積み重ねでしかなく、新しい発見、気づきが得られたのかあまりよくわからない。
「お勉強」と「人間力」
最近、学校での「お勉強」が役に立たないという言説に人気がある。そしてやたら巷(ちまた)をにぎわす「~力」という活字がそれを象徴しているように考えられる。「説明力」、「対人力」、「接客力」、「質問力」、果ては「人間力」。
「力」という言葉は、「物理的」に生活や生産活動における悩ましい問題に対抗する「作用」というニュアンスを持つように思う。だから好まれるのかと思う。
こういう風潮からすると、小生の読書とはただじっと机にしがみ付く行為で、何ら問題解決に結びつかず、お金をどぶに捨てるムダそのものに思うのだ。
よい読書とよい本
しかし、同時に大切なことをそんなムダから教わったように思う。
お金がない、着るものや食べるものに贅沢できない。そんな小生の米国生活からじっくり時間をかけて、今を見つめ、考え、そして自分の「ものの見方」に疑問を投げかけることの大切さに思いが及ぶのだ。
知識や情報が氾濫する現代にとって、よい読書とは「知識を得る」ことよりも、これまでの自分の「ものの見方」を改め、問い直すものではないのかと思う。(知識を得ることの相対的価値が低下し、知識や情報をどう読むのかという相対価値が上昇してきた、とも言えようか?)
たくさん読んできたことが重要ではない。何を読み、そこからどう「ものの見方」を問い、自分の生活そして思考が影響したのかが語られなければならないのだ。
もちろん、よい読書にはよい本が必要であろう。
よい本とは、美しく清らかな言説ではない。今の時代に閉塞(へいそく)感があるのなら、それは希望ある将来がすぐ間直に迫っている。生活はかくも奇妙で、意外でそして面白い。よい本はそう説こう。
よい本は「答え」を教えない。課題に対して重大な「ヒント」を与えよう。そして、その「ヒント」は、世界観を変える「種」になり、やがて人を動かそう。
その意味で、古い見方を新しい紙に書いて、「新しい見方」に見せかける本が今多すぎるのではないか。そして、よい本に出会うことは、よい伴侶(はんりょ)に出会うことほど難しいのではないのかとも途方に暮れる。
現代版「焚書坑儒」と「力」への憧憬
しかしながら、本や学校に対して常に侮蔑が向けられるのも宿命ではないか。
昨今学校が役に立たないと声高に論じられ、巷の営業マン、コンサルタントが大学の校舎に出向き、実用的だと力説するキャリアセミナーなるものを講じて、ムダな知識を講じると思しき教授陣を外へと追いやっているように見える。
まさに、現代版「焚書坑儒」の観である。大学で「大学は役に立たない」と講じている。実に滑稽(こっけい)だ。
その一方で、学歴が社会生活に役に立たないと垂れる学生がいる。本をたくさん読めば、賃金が上がるのであるなら、いくらでも本を読んでやる。これも実に滑稽だ。
しかしながら、このような昨今の大学の風景は、現代人が知識や情報が溢れる中で根拠なき将来不安と脅威に怯(おび)えている表象ではないか、とも勘ぐりたくなる。
なぜなら、「~力」こそが現代生活の「不安」や「脅威」に対抗できるという市井(しせい)の淡い期待を「~力」人気に見ないわけにはいかないからだ。
しかしながら、「力」は物理的に物事を変える便利さを持つ反面、時に暴力に変幻する虞(おそれ)を孕(はら)むことも記憶に留めたい。暴力は実にわかりやすい。それに対し、考え、読むことは実にしんどく退屈なのだ。
若き知性への転換
こんな時代にこそ、小生は学校教育や教養そして知性なるものは我々に「ものの見方」を示し、これまでの「ものの見方」を問い直す機会であってほしい。そして、新しい時代像を映す鏡であってほしい。
今こそ、若き新鮮な知性なるもの、即(すなわ)ち「ものの見方」を問い、考え、必要ならば変えていく躍動的で新鮮な営為が必要ではないのか。読書とはそんな若く新鮮な知性への探求であってほしいと思う。
08/08/2008
追記
「若い知性」とは、間違いを恐れず果敢に新しい問題に取り組む、向こう見ずだが真剣な知性という意味である。それに対して、「年老いた知性」というものもあろう。それは厳(いかめ)しい訓詁(くんこ)学のように退屈で古めかしい思想を信仰する保守的な知的態度である。
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