低迷する日本
米国のサブプライム危機に起因する日本経済の低迷が話題になっている。この低迷の原因は何か。言うまでもなく総需要の低下である。しかし、なぜ需要が低下するのか。この原因を取り除くことこそ、真の解決策となりうる。
減税や定額給付により需要を刺激することが求められているようだが、その場しのぎであることを考えると有効打ではない。
需要低迷への解決策は、人々が「明るい未来がある」という確信めいた期待を持続的に持つことである。将来不安があるから、消費や投資が低迷する。不安がなければ、消費や投資を増やす。論理は実に簡単だ。
自信の喪失
日本は「失われた20年」を満喫しようとしている。我々は大国でありながら、自信を喪失し、明日を見出せないでいる。これこそが「失われた20年」を招聘しまいとしていると私は考えている。
世界的に見てモノと便利に溢れた大国でありながら、我々は自信や人生の幸せを謳歌し切れていない。実にもったいない話に聞こえようが、これこそが解決すべき21世紀に課せられた課題のひとつなのかもしれない。
政府が悪いのか、それとも市場経済が有効に機能していないから、我々は不満に思うのか。「政府か市場か」という既存の言葉をもってして、この「現状に対する不満」の解決は容易でなさそうである。「政府の限界」や「資本主義の限界」を論じることがいかに軽率で、ナンセンスであるかはもはや強調するまでもない。
結局我々は今の時代を克明に語るアイデア、言葉を持っていない。いや、持とうとしないのかもしれない。それにしても、今を生きるアイデア、今を楽しむ言葉、作法。それはどこにあるのか。
我々は溢れんばかりのモノや楽しみのチャンスを持ちながら、それをどう活かせばよいのかわからないでいる。人生を豊かにするチャンスを活かしきれていないというジレンマに陥っているのではないか。
夢を持つな、という助言
最近、「夢を持つな」という助言をよく耳にする。定職に就かない若者が取り沙汰されて久しいが、夢を追いかけて定職につかない若い世代が多いことに対する危惧だとも考えられる。
しかしながら、定職に就かない人々は本当に「夢追い人」なのだろうか。単にやりたいことが見つからないから、定職に就かない人が多いのだろうか。
私は今の若者の雇用の現状は、マクロ的な低迷も相俟って、若者の就労に対する意識変化と企業の求めとがうまく合致しないことに過ぎないと見ている。そして、その原因のひとつが、今の時代を知らない若者、企業そのものなのではないかと考えている。
「就活」のための「大学」、「大学」のための「高校」
高校での時間の半分、それ以上もしくは全ての時間を大学入試のために使った経験をしている人は多い。大学に入れば授業の受講はそこそこ適当にして、直にバイトやクラブ活動に勤しみ始める。
3年生の秋になれば、授業をすっぽかして、ある学生は新着のスーツに身を固めて企業の採用選考説明会に赴き、ある学生は公務員試験受験のために予備校へ通い始める。
日本では大学は「3年制」なのだ。場合によっては、これら就職活動のために授業が休校になったりするが、残り1年は就活に当てるのが日本の習わしである。
しかしながら、就職氷河期を潜り抜けてきた世代にとって、この実に当たり前のような光景に誰も異議を申し立てる余地はないのか。
「就活」という茶番
企業は大学での勉学を軽蔑し、「理屈よりも実践だ!」、「戦略よりも行動だ!」とまくし立て、官公庁は「政治的に中立な公僕」をと美辞麗句を並べ立てる。
世間は、今の低迷の時代も相俟って官公庁よりも民間企業の努力と切磋を称え、公務員が楽をしているとぼやく。双方ともいい人材がいないとぼやく中で、従来の採用政策が行き詰まりを見せている、と考えないようだ。
「古い習わし」を踏襲する点では、民間官庁どちらも同じであるし、どちらがより努力をしているとは考えられない。
人を作らない時代
「人事採用」は企業官庁ともにとって重要な課題である。将来の組織の行く末を決めると言っても過言ではない。であるにもかかわらず、人事採用において「古い習わし」を踏襲している。怠慢ではないか。採用活動にインターネットやウェブを大いに活用し、創意工夫を凝らしているとはいっても、所詮かたちだけ。
じゃ、どうしろと言うのか。私はそれを問題にしているのではない。会社官庁がどういう人材を獲得するのかは企業官庁で決める問題である。両者とも「新しい人材」を獲得、育成するというものの、企業や官庁の古い習わしに従う「古い人材」にあった「古い新人」を獲得することに専念しているように思える。この点が私の問題提起である。
何も「古い習わし」を踏襲することを否定しない。人は習慣に生きる動物である。しかし、「古い習わし」を踏襲する今の我々の行動、「新しいものを創ろう」としないこの知的怠慢、チャレンジ精神の欠如こそが、今という「低迷の時代」の原因であるのだ。