Monday, November 12, 2007

信じること、やさしさ、自由

アメリカに来て思ったのは、言語が違うだけで、こちらの人の人となりは日本とはそんなに違いはないように思われる。ただ、違うのは日本には人付き合いにおいて(島国根性からか)暗黙の了解というものがありうるが(例えば、知人から酒に誘われたら、私は同行しなければ、その場はまずいでしょう。)、こちらにはかなりドライな人付き合いが通例のようである(例えば、知人から食事の誘いがあっても、「ノーサンキュー、アイ ハヴ ア タスク」でその場は難なくやり過ごすことができそうである。)。

私はどちらかというと、人付き合いはドライでクールなほうが気が楽で安心するのだが、こちらの留学生の中にはこれが癪に障るらしい。

さて、最近熱心なキリスト教徒と話をする機会が持つことができた。こちらの修士の学生である。紳士的で、挨拶を心がける若いアメリカ人男性である。酒、タバコは一切しない。夜更かしをせず、常にパーティーの席では社交的に礼儀正しく振舞う。毎週日曜日は教会へ行き、聖書の言葉をことさら胸を張って語る。特に印象に残った彼の言葉は、「強固な人間関係を築くことが重要」なのだそうだ。

しかし残念なことに、正直、私はこれが理解できない。彼は本当に楽しいのだろうか?私はタバコはしないが、お酒は大好きである。ダウンタウンに連れて行ってもらったとき、歩行困難なほどかなり酔いつぶれてしまった。いい夜だった。異文化交流は時に休息を与えよう。また、パーティーの席へは行ったことがないが、毎週教会へ行くなら図書館で勉強したほうが学生としては理にかなっているように思われる。恋愛についても超まじめに語るのだが、退屈して聞いていられない。日本では恋愛は一種のセックスゲームだ。これは特に我々の若者文化の一つなのかもしれない。男の良し悪しは女との経験人数で決まる。実に簡単で、結構な話である。愛なんて飾りだ。要は、カネを持つものが勝者なのである。そして、女はカネに群がろう。女はカネで買えるのだ。カネの力を侮(あなど)ってはならない。資本主義社会では、カネは偉大なのだ。カネは権力なのだ。アメリカはまさにマネー(カネ)の国ではなかったのか?町を歩けば、浮浪者たちはカネ、カネ、カネといってくるではないか?日本では、このような事態はアイリン地区(大阪市西成区)ぐらいでしか見受けられないだろう。アメリカにはこのようなアイリン地区が日本以上に存在しているように思われる。そして、彼らほど、カネの力を知っているものはいないのかもしれない。

私は以上の感想を正直に彼に話した。すると、怒り始めた。自分はとにかく正しいのだそうだ。

実に教養のないご意見である。付き合いたくない人種である。実にうざい。自分が正しいと思うとき、他人は正しいとは思わないことがあることを知らなければならない。これは、世の中に正しいものがないということの表明ではない。正しいか正しくないかは、(数学の定理は別にして)最終的に自分が決めることなのである。つまり、それは個人の自由なのだ。

確かに、信じるものは救われるのかもしれない。しかしながら、ダウンタウンの貧しい黒人たちは信じないから救われないのだろうか?また、彼らが愚かだから救われないのだろうか?アイリン地区の浮浪者たちは毎朝酒に酔いつぶれ、訳のわからない言葉を吐き散らしている。彼らもまた信じないから、救われないのだろうか?馬鹿だから救われないのだろうか?そして、その隣の地区には、優雅で妖艶な飛田新地(リンクは古今東西風俗散歩さんから)がある。まさに、女とカネがひしめき合い、欲望とカネの渦巻いているのである。

とある女性人権団体の人間は、これを男性社会が作り出した「女性の商品化」などといって男性である私を批判したことがあるが、こちらでは、女がまさに商品として男に買われる世界である。この馬鹿女に眼(まなこ)を見開いて飛田を見てこい、と言いたくなったが、これは紳士的な態度ではない。70年来、この風景は変わらないというある老紳士の意見。これはまさに買い手の男性が作り出した世界なのかもしれない。しかしまた、これは、女を売る売り手の女性の存在があってのことではないか?需要は供給を作る。同時に性(!?)の法則は、供給が需要を作るといっているのではないか?(セイの法則をもじって・・・) まさに、現実の資本主義社会の縮図ではないか?

アイリン地区では、冬になると名もなき凍死体がごろごろ出てくる。遺体を安置している、そこのとある教会の修道尼はただ黙って安置所を眺めていたのを私は強い印象を持って記憶している。誰がこの状況を救えるのだろうか?教会の人々だろうか?まことに教会の人々のアイリン地区での献身的な活動に対して私はまずは真摯な敬意を表さなくてはならないが、彼らの力はすごく限られていることは言うまでもない。またそこで活躍するNPO(非営利団体)の人々の働きも限られている。労働組合の取り組みも最後は「お上が何とかしろ」との大合唱である。

結局状況を救えるのは経済の力、カネなのである。アイリン地区の浮浪住人に雇用の機会を与える政府ではない民間営利団体の営利活動こそが、唯一の救いなのである。大阪市の取り組みもある程度評価できようが、莫大な税金を浮浪者対策に使っているのは、他の納税に務める勤労者にとってフェアではない。(昼間に市の役人が浮浪住人にパンを与えている光景はさすがに見ていてつらいが、これはその場しのぎに過ぎない。)

一部の教会の人のいう神の力も、社会党や共産党のいう政府の力も結局のところ万能ではない。アイリン地区の浮浪住人や、飛田の芸妓たち、そして我々自身にとっての唯一の救いは、信仰でもなく、政府でもない。まさに確かな雇用そのものなのである。

また、思いやりややさしさも人を救う有効打ではない。人を救えるのは、経済の力、カネの力しかないと言い切っても欠点は免れよう。「お兄ちゃん、優しすぎるで。それでは、世の中渡り合っていかれへんで。」ととある老婦人は私を叱咤した。情は人のためにならないこともありそうである。人を思いやる時間があるなら、その分働いてカネ稼いで、そのカネを恵んでくれや。これが今ある現実と言うものである。女がほしけりゃ、カネもってこい。まさに、女は憧れという名の虚飾、カネは現実という名の虚構なのだ。人を救うも救われるも、資本主義社会においては個人の選択の自由なのだ。もし、人を救いたければ、政府ではなく、己が腹を切れ。もし、自分を救いたければ、いい職を見つけて、カネを稼いで来い。これが道理というものである。死ねも生きるも自分次第なのだ。

しかしながら、そんな世界にこそカネでは買えない何か大切なものがあると信じたくなるのも、人情というものであろう。教会の人も、共産党の人も、崇高な志を胸にNPOに従事する人も、そして高い希望を持つ奇特な青年諸氏も、結局はそのありかを追い求めてやまないのかもしれない。そして、それは実にありがたいことであるといえよう。そして同時に、これこそが我々にとっての大きな不幸のひとつなのかも知れない。そして、もしこれが不幸であるとすれば、これほどの喜劇もないようにも思われる。

実にくだらないことを書き連ねたが、信じることもやさしさも最後は個人の選択の自由なのだ。他人から強制されるものではないと思う。どうぞ勝手にやってくれや、と。

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