Tuesday, March 18, 2008

日銀の病気?!(森永氏の見解)

日銀総裁人事について、経済アナリストの森永卓郎氏の見解。

『...衆参両院で武藤、伊藤両氏が不同意とされた。...では、民主党はなぜ両氏に不同意だったのか。

その根底には、財政と金融の分離が必要だという主張がある。...日銀総裁というのは、一般の人が考えている以上に、非常に重要なポストである。しかも、ここに来て総裁選びの重要度はさらに増している。その理由は二つある。

一つは、福田内閣のもとで、小泉内閣以来の財政再建路線をとっている点だ。緊縮財政のもとでは、減税や公共事業を景気政策としてとることが不可能に近い。となると、景気対策は金融政策によってコントロールするしかない。

いきおい、金融政策をつかさどる日銀総裁の存在感が増すわけだ。

もう一つの理由は、日銀総裁をいったん選んでしまうと、任期の5年間はそのクビを誰も代えることができないという点だ。1998年に施行された新日銀法によって、大蔵大臣(現財務大臣)の罷免権がなくなってしまった。そのため、どんな失敗をしても、どんな犯罪的な行為をしても誰も止められない。ある意味で、日本最大の権力者となったのである。

...そうした重要ポストだからこそ、時間をかけて公正中立な人を選ばなくてはならない。その面から言えば、たいした議論もなしに政府・与党からいきなり人事を示されたことで、民主党が拒否の態度を示したのも当然といえば当然である。

だが、その一方で、民主党の議論にも大きな間違いがあるとわたしは思う。

民主党の主張は、冒頭で述べたように財政と金融の分離である。なるほど、たしかにそういう議論はある。その根拠というのは、財政担当者に金融政策を任せると、過度に金融を緩和してインフレになる心配があるためだ。なぜなら、財政当局にとってはインフレにしたほうが、税収が増えて財政収支が改善する。そのために、財政担当者に金融を任せると、どうしても金融緩和の方向に政策のかじ取りをしがちなのだ。

だが、そこにはもう一つの議論がすっぽり抜け落ちている。

中央銀行の担当者をトップにした場合、これはちょうど逆の現象が起きてしまうということだ。中央銀行の担当者というものは、自分たちが扱う自国紙幣の価値が下がるのを嫌がり、適切なレベル以上に金融を引き締める傾向にある。

これは日銀に限らず、世界の中央銀行に共通する傾向で、「中央銀行の病気」と呼ばれている。しかも、日銀は「中央銀行の病気」の重症患者である。だからこそ、戦後、どの先進国も経験したことのないデフレに長期間陥っているわけだ。

日銀のトップを選ぶからといって、生え抜きの日銀出身者にすればいいというわけではない。財務省を排除して中央銀行の担当者に任せればいいというわけではないのである。』



これは驚いた。森永氏は本当に経済アナリストか?

『中央銀行の担当者は、自分たちが扱う自国紙幣の価値が下がるのを嫌がり、適切なレベル以上に金融を引き締める傾向にある。これは日銀に限らず、世界の中央銀行に共通する傾向で、「中央銀行の病気」と呼ばれている。しかも、日銀は「中央銀行の病気」の重症患者である。』

なぜ日銀がインフレを嫌い金融を引き締めるのか?ずばり、物価の安定と金融システムの安定こそが、日銀の目的だからである。この目的遂行のために、日銀は金融を引き締める。

また、適切なレベルとは「どんなレベル」であるのか? この点について、米国の経済学者ジョージ・アカロフらによれば、0%以上のインフレは経済を潤す潤滑油として、労働市場に対して機能するという論文を発表している。

森永氏はこのことを指しているのか?しかしながら、物価安定のための政策を「中央銀行の病気」と呼ぶとは知らなかったし、誰がこのようなことを言っているのか知りたい。

森永氏の往年の主張は、「日銀の金融引き締めにより戦後どの先進国も経験したことのないデフレに長期間陥っている」という点である。この点については検証は避けたいが(ブログで語れるほどやさしい問題でない!)、日銀が金融引き締めを実際にしているか、またはこだわっているのか、これらは未検証の問題だ。



『日銀総裁に求められるのは、財務省にも日銀にも偏らない、公正中立な政策判断ができる人物である。つまり、金融政策の決定においては財務省を排除すべきではなく、日銀が完全な独立性を持つべきではないのだ。

なにかというと、日銀には「独立性」という言葉がつきものであるが、これについては誤解があるようだ。これは、けっして「日銀は政府から独立して何をやっても構わない」という意味ではない。政治からの過度の介入は困るが、だからといって好き勝手な金融政策をとって、デフレに陥らせてもいいということではまったくないのである。

日本銀行法4条には、日銀の行なう金融政策として、次のように記されている。「政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」このように、法律的にも政府・財務省との協調が定められている。

そして、政府と中央銀行との協調体制は世界の常識でもあるのだ。インフレターゲットを導入しているニュージーランドやカナダでは、インフレ目標を財務省と中央銀行の協議で決定している。(ちなみに、インフレターゲットというのは、物価上昇率の目標をたとえば2%と定め、実際の物価上昇率がその水準になるようにする政策である。健全な経済活動を目的としたものであり、けっして過度なインフレを助長する政策ではない)

こうした目標を、中央銀行と財務省のパワーバランスによって決めるというのは、きわめていいしくみではないだろうか。中央銀行は景気を引き締めようとし、財務省は景気を緩和しようとする。そのせめぎ合いのなかで妥当な線を出そうというわけだ。

...こう見ていけば、中央銀行の独立性というのは、何をやってもよいという独立性ではないことがおわかりだろう。国民共通の「物価安定」という定められた目標が厳然として与えられており、あくまでもそれをいかに実現するか、という政策手段においてのみ独立性があるわけだ。
中央銀行が好き勝手にやった結果、国の経済をデフレに陥らせてしまったなどというのは、まさに犯罪的な行為といっても過言ではない。

安定した物価目標が、具体的に何%と示されれば、国民にとってのメリットは大きい。将来にわたっての物価上昇率の見当がつくのだから、家を買うにしても設備投資をするにしても計画が立てやすい。たとえば、物価が年3%上がりそうで、金利が年3%ならば実質ゼロで借りられると見当がつくわけだ。こうなれば、消費者も投資家も正確に判断できる。

...今回、副総裁として衆参両院で同意された白川氏を含めて、「目標を示せば、金融政策の自由度がしばられる」と述べているのだ。

これはとんでもない話である。日銀にとって最大の仕事は、物価をどう安定させて、経済を活発化させるかではないのか。

物価安定目標をきちんと公開すれば、経済の円滑な成長につながる。結果がダメだったら、責任をとらせてクビにして、もっと適任の人を任命する。それが当然の社会のしくみというものではないのか。にもかかわらず、日銀は物価上昇の目標を明らかにしてこなかった。

「独立性」と金科玉条のように言うが、そんなことをいって目標を定めないから、むしろ政治の介入を受けてしまうのだ。物価上昇率の目標をきちんと示しておけば、その目標を達成している限り、介入を受ける筋合いはなくなるのである。』




一見筋があるようにも見えるが、特に『日銀にとって最大の仕事は、物価をどう安定させて、経済を活発化させるかではないのか。』という点には注意が必要。

日本銀行の目的は、物価の安定であって、経済の活性化ではないということである。景気の変動をならすことは日銀の仕事ではないし、日銀はそうすべきでない。なぜなら、日銀に常に景気拡大するようにという圧力がかかるからだ。誰がその圧力をかけるのか?それは政府であり、政府を動かす国会議員の先生方である。

国会議員の先生方は票がほしい。となると、度重なる国民からの景気拡大の要望をかなえるべく奔走しよう。どう要望すればよいのか?政府財務省はおろか日銀に金融緩和をするように迫ればいい。


財務省と日銀のパワーバランスで経済の均衡が決まるのかどうかわからないが、基本的には民間経済の均衡は民間の経済主体の経済活動が決めるものであって、政府・日銀の介入は極力避けるべきであるというのが、これまでの「合理的期待均衡」の研究から始まる30年間の動学マクロ経済学の研究から得られたひとつの教訓ではなかったか? シカゴ、ミネソタの中西部流のマクロ経済学とも呼ばれようが、これらの研究の教訓は看過すべきでない。

政府は常に民間から景気拡大の要望を受け、もし仮に実現しようものなら物価の不安定と過度な景気変動を招きかねない。景気安定は政府の仕事。物価安定は日銀の仕事。きっちり分割することが「日銀の独立性」の意味でなかったか?ある意味、「司法と行政の分離」とよく似ている。

このあたりの議論はもう少し必要かもしれない。

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