Tuesday, February 26, 2008

漠たる不安

作家の芥川龍之介は晩年「漠たる不安」という有名な一言を残して他界した。その意味内容はともかくも、一抹の不安が最近脳裏を離れない。

米国に来て、半年になろうとしている今、今年日本へ帰らざる終えなくなるような思いをしている。

今通う大学は、どうも海外留学生には奨学金を(表向き出すというが)出さないように見える。研究目的的要素よりも、学部生教育の補助要員の確保のための奨学金、という要素が強い。これはトップレベルの大学院教育をしている学校ではないことからも至極当然なのかもしれない。

残された道は2つあろう。2つとも「日本への帰国」であるが、問題は「日本へ帰った後」である:働くか、もう一度、おそらくこれが最後であるが、米国大学院へのチャレンジである。しかしながら、後者は預金も底をつき、(可能性としては比較的小さいが)奨学金つきの入学を狙っての再チャレンジとしては考えてみてもよいかとも思う。

いずれにせよ、茨の道である。

働くことについては、私は生涯の職としてプロの「家庭教師」の道を選ぼうと思う。自分にはこれが一番向いていると思う。勉強することの意味について教えることができないとしても、これまで学んだことには一定の市場価値があると考えている。 教えることは好きだし、勉強についての思いを生徒の皆さんと共有できると信じている。

会社員としてこれから生きていくのは、おそらく(特に精神的に)満足のいく生活を保障してくれないと思う。たとえ、金銭的に満足できたとしても、である。

朝から晩まで冷暖房がしっかり効いた事務室で、自分の考えと正反対の、もしくはまったく違うことを求められ、「己を滅し」日々を送る生活に対して正直希望が持てない。もし会社員ができるのであれば、米国に来ないで、とっくに会社員をやっていると思う。

私の仕事観は、やりがいや達成感ももちろん重要だが、(尊大に聞こえようが)「思い」や「気持ち」が第一条件として挙げられる。

仕事とプライベートを両立、なんてどこか変な発想に思える。 こんな事言う人に聞いてみたい: 「あなたにとって、仕事している時間は何ですか?」 「仕事の時間」も自分の時間であることに変わりない。(時間を売るのが「仕事」だという意見もあるが、それは違う。時間を売るのが仕事ではなく、「価値あるサービス」を売るのである。したがって、支払ってもらえるだけの価値を生まねばならないのだ。時間を売るだけで仕事になるなら、一日中会社のオフィスに居座ってやる!)

自分が一日中その仕事について思いをめぐらすことができるか?それが重要だと思う。

こちらに来た意味を再確認したい。社交はどうも嫌いだ。英語が下手だと留学生になじられ、学問的な会話を求めても、どこか敬遠されているように思う。

しかし、学問の探求や教育、政治問題には関心がある。経済学はわれわれが考えるよりも奥が深く、いまだ未知の領域を持っている。幸せな生活設計において、経済学の発想は必須だと信じている。

教育の価値はわが国では過小評価が過ぎるように考える。(だからこそ、日本に来た留学生は不満タラタラで帰国する)政治は「タレントの天下り先」と化している。

タレントに税金を持っていかれることにどう思うのか?具体的な「国家像」もないまま、聞き心地よい政策項目をただひたすらまとめる。

子育て支援します、女性の働く環境を改善します、とはいうものの、そもそも両者の政策は両立できるものなのか?女性が働けば子供を生み育てる機会費用は高まるし(男性側の協力を含めればなおさらである)、子育て支援に税金を投入しようものなら、勤労者世帯に過大な税負担を強いられる。 いずれにせよ、今叫ばれている政策項目はさらなる少子化に拍車をかけよう。

ともかく、内容のない、表面を取り繕う、うわべだけの会話には正直退屈だ。かといって、宗教や政治の話題は御免だ。そういった問題に理解ある人間は意外に少ないようにも思うからだ。

常にわれわれが正しいと思うことが、違う人にとっては正しくない。常に心がけねばならないことだと思う。

とにかく、こういった問題は考えないでおこう。こちらの人間は正直あまり信用していない。とくに約束についてはかなりルーズだと思うし、言っていることが2転、3転している(時間非整合性もはなはだしい)。自分に人望がない証左とも言えるが…(泣) 

最近動学マクロ経済学にはまっている。学部のころからマクロ経済学には強い関心があったが、やはり自分はマクロ経済学が好きなんだと再確認した。(数学的扱いには悩まされていても…)当分人と話するのはやめて、動学マクロの研究を「密かな愉しみ」にしたいと思う。

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