Friday, October 12, 2007

敵と思え

今日は日本語でブログを綴りたい気分である。アメリカに来て、日本にいたころの夢をよく見るようになった。日本では、良いこともあったし、悪いことも当然あったように思うが、何故か人は悪いことばかりを思い出す。今日もあまり良い夢ではなかった。早朝目が覚めると、ふとこちらでの生活に少し疲れているのかと思いきや、部屋が冷え込んでいただけである。毛布をかぶり、また眠りにつく。

こちらでの生活は、言葉の問題以外に特に問題はない。こちらの人たちは思ったよりも親切である。時々バカもいるが、そういうのは相手にしない。無視をすればよいだけである。

今日の夢も、以前いた職場での出来事のことであった。以前に英語で綴ったと思うが、私はほんの少しの間だけサラリーマンしていた時期がある。何故かえらくそこの役員さんに気に入られ、試しに入ってみたものの長くここでは働けないと思い、今に至っている。「3年頑張ってみたら」と旧知の知人からも言われたが、何も我慢、根性比べをしているわけでもなく、正直に生きたいと思い辞職を決断した。この判断は至極当然だったと考えている。(正直に言うと、そこの仕事があまり好きでなかったとも言える。)

日本では私のような「フリーター」の問題がやかましいが、この問題の本質は「若者が一生懸命に働かない」のではなく、「職に誇りと責任をもてない若者」が多くなったことではないかと考えている。この問題は年長者による経験論や精神論で批判されることが多いが、もう少し落ち着いて言うと、企業倫理や、英語で言うところの「コンプライアンス」にも深くかかわる重大な問題で、近年のミートホープによる食肉偽装やパロマガスの欠陥器具の問題にも見られるところである。フリーター問題は何も若者だけの問題ではなく(中高年のフリーター問題もあるがこちらは何故かあまりクローズアップされない)、日本のマクロ経済の停滞だけではなく、より深いところでの日本人の職業意識、倫理観の変化の表れではないかと考えている。

近年日本のモノづくり、つまり日本の製造業の存続が懸念されているが、その中で日本製品の欠陥品が目立っているとも言われている。品質が低下したといわれているのである。日本のモノづくりは元来「品質の高さ」が売りだったと思う。こちらに来てびっくりしたのは、シャープペンシルの芯や、ボールペンは日本製(パイロットさんの製品が多く見受けられるし、ちなみに私はパイロットさんのファンだ。)であるし、路上で走っている車の半分はトヨタ、ホンダである。大学の芝刈り機は大阪が誇れる(と思うが…)クボタさんの製品だ。アメリカ人は日本の製品の品質の高さを十分に認めていると思うが、いかがか。しかしながら、その品質の低下が危ぶまれている。これもひとつには、日本人の職業意識の変化が影響しているのではないかと考えている。

一つの仮説は、派遣労働がさまざまな分野に広がったことである。派遣労働とは言うまでもなく、事業主(派遣元という)が自分が雇用する労働者を自分のために労働させるのではなく、他の事業主(派遣先という)に派遣して派遣先の指揮命令を受けて派遣先のために労働させる事をいう。これは企業の営業経費を圧縮するために、社保険、教育研修などの費用のかかる正社員を雇うのではなく、社保険などの費用のかからない比較的安い派遣社員を使用することで、経営効率、つまりより少ない費用でより高い利益をあげる目的で、80年代半ば過ぎから、企業の事務経理関連業務の分野を中心に広まりだしたのである。正社員を減らし、派遣社員に置き換えることで、いわゆる企業の損益分岐点を低めに抑えることができるのだ。そして、近年は民間企業とその適応範囲の広がりにとどまらず、官公庁においてもこの派遣労働が広まりだしている。(しかしながら、官公庁のリストラは民間企業に比べてあまり進んでいないような気がするのは私の勘違いだろうか?)

日本では長い不況が席巻していたが、「労働市場の流動化」を促進するとして多くの経済学者(阪大の大竹文雄先生もそのお一人であるが)はこぞって労働市場の規制緩和、つまり派遣労働の原則自由化を推奨した。これは、労働者の側面からすると雇用の機会が増え、労働者の余剰(これは経済学用語であるが、つまり労働者の満足のことである。もちろんこの満足を何らかの指標を用いて貨幣単位で計ることもできるが、詳しくはミクロ経済学の教科書を参照のこと)を引き上げることができるし、企業の側から見ても、より低い賃金コストで人を雇い入れることができるので企業の余剰を引き上げることができよう。

※紙に右上がりの労働供給曲線(この曲線の垂直の高さと曲線ならびに数量軸に囲まれた面積が労働者の余剰をあらわす)を引き、右下がりの需要曲線(同じく企業の余剰をあらわす)を引けば、市場において労働供給過剰(つまり失業者がいる状態)であれば、派遣社員は正社員を雇うことに比べて費用が安いので、実質賃金が下がろう。よって、実質賃金が労働市場の均衡により近づくことで、双方の余剰は高まるだろう。

このように、派遣労働は市場厚生の観点から見て、パレート改善的だと考えられる。が、本当にそうだろうか?? この発想の盲点は、企業/労働者双方の相互的、戦略的な関係がまったく描かれていないことである。当たり前である。上記の部分均衡分析は完全競争を想定しているため、経済主体の戦略的意思決定をまったく排除している。しかしながら、派遣労働の問題と、近年の日本製品の品質低下との問題をリンクさせて考えるには、労働者/企業双方の戦略的な関係(もっと経済学っぽくいうとゲーム論的な状況)を考慮に入れなければならないと考えている。

簡単に言えば、派遣労働者はいつでも首を切られる立場にあるために、自ら与えられた業務を誠実にこなすインセンティブに欠け、品質の低下が生まれる。70年代のアメリカ病といわれるものがまさにそれである。

70年代のアメリカは、製造業の停滞に悩んだ時代でもあった。その一因として挙げられるのが、日本の製造業の台頭や2度のオイルショックとそれに起因するスタグフレーションももちろんあるが、労働者のモラルの低下があるともいわれていた。労働者の業務に対する忠誠心に欠けていたのである。

真偽はともかく、面白い話がある。ベルトコンベアーでのことである。ある生産ラインがストップしてしまった。現場にいた従業員はそこで立ち往生している。どうしたのかと聞くと、このラインを自分で操作することができないという。このラインの操作は現場監督にしか任されておらず、その現場監督は今は不在である。自分ではどうすることもできないという。日本ではまずありえないだろう。そこにいた従業員はまず何らかの形で連絡をとり、直ちに対処するだろう。全体のラインに影響するからである。しかし、アメリカではこれである。いわゆる「単能工」といわれるものである。複数の現場を受け持つ労働者、つまり「多能工」ではなく、そこのラインだけを受け持つ労働者のことである。これは、企業の側に立てば、労働者への教育の手間が省け、簡単な作業であるゆえ気軽にいつでも雇える。労働者の側にしても、やめたくなればいつでもやめれるし、身が軽い。しかしこれでは、業務に対する忠誠心はおろか、技能や経験の蓄積がなされず、従業員相互の間での職場環境も決してよくないだろう。なぜなら、どうせ周りの連中は明日にでもいなくなる連中だからだ。従業員間の信頼関係も当然生まれない。これが職務に対する集中力を欠如させ、品質の低下につながると考えられる。経済学っぽく言うと、従業員の業務への忠誠心、従業員双方の信頼は、製品の品質に「正のマーシャル的外部効果」を与えるといえようか。砕いて言うと、従業員の忠誠心や信頼は製品の品質をよりよくしうるということである。

さてそろそろ本論に入ろう。以前いた職場の上司がよく「周りを敵と思え」と私に叱咤した。今日見た夢も、この風景であった。なんとも嫌な光景である。しかしながら、競合他社ならまだしも、自分と同じ職場にいる従業員すらも敵と思えとは、いったい誰を頼りにすればよいのやらわからなくなる。私はここでもそうであるが(アメリカでは挨拶をしないのは大変失礼な行為に当たる)挨拶を心がけている。できるだけ挨拶をしようと。しかしながら、ここの職場は朝眠たいのかどうなのかわからないが、役員さん以外は挨拶しても、挨拶がなかった。それなら、会社なんていらない。一人で事業をすればよい。私はこの言葉の真意はわからないが、なぜこの会社で働く社員の半分が1年以内に辞めていくのかがわかる気がした。品質に対するクレームも何回か電話で受け取った。苦い経験である。が、自分が何をすべきかも見えてきた。

フリーター問題は自分にとって遠い経済問題でなく、本当に身近な問題である。雇用の流動化だといって片付ける問題ではなく、長期的な視点に立って本当に雇用の流動化が日本の企業経営、マクロ経済にとってプラスかどうかを考えたい。

そういえば、私の父はよく職場の上司の話を私に聞かせてくれた。ほとんどは世話になったという話である。聞いててうっとうしくない。なぜ、父は私に職場の上司のことを語るのかその理由を考えてほしい。父は、その上司と職場に支えられたことを誇りに思っているからだとしか考えられないだろうか。そんな信頼ある職場が日本の企業文化の底辺にあったからこそ、今こうしてパイロットのペンシルをアメリカで見かけることができるのではないか? と小生思うのであるがいかがなものか?ちなみに、私の父はパイロットの社員ではないので、あしからず。もののたとえで言ったまでである。

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