Friday, January 11, 2008

大阪府知事選に見る「日本の政治」

私の出身地である大阪の知事選挙が近い。焦点はまさにタレント弁護士と財界の推す大学教授の動向であろう。しかしながら、その勝敗は、以下に述べる理由から決まったように考えられる。


現代政治は「政治ショー」
近年の日本の政治は、まさに「劇場型政治」の様相を呈している。かつて、作家の五木寛之氏がニュース報道のバラエティー化を指して「ニュースショー」と皮肉ったように、「政治ショー」と化しているのが今の日本の政治に見られる。

実はアメリカの政治もそのような一面を孕んでいる。たとえば、映画「プレデター」に出演していたスターの多くが、実際に政界に進出しているのはアメリカではよく知られているようである。Arnold Schwarzenegger氏はカリフォルニア州知事であるし、Jesse Ventura氏はミネソタ州知事として活躍していた。Sonny Landham氏はケンタッキー州知事選への出馬経験がある。

テレビ映画著名人が政界へ進出できるのは、映画テレビで培ったタレントイメージや知名度が大きく働いているように考えられる。

日本でも、アメリカと事情が違えど、その傾向が強く、たとえば95年の大阪府知事選でタレントで芸人の故横山ノック氏が当選し、東京都知事選には放送作家でタレントの故青島幸男氏が当選。近年では東京都知事の作家の石原慎太郎氏、宮崎県知事にタレントのそのまんま東氏が当選し、その公務に当たっている。中央政界でも、タレントの大橋巨泉氏、田嶋陽子氏が参議院議員をしていたし、現在でも弁護士でタレントの丸山和也氏、元テレビアナウンサーの丸川珠代氏が参議院議員をしている。

政治活動にはそれを支える資金も重要であるが、金では容易に買えない知名度、認知度が大きく幅を利かすことは言うまでもない。そしてさらに、テレビを中心とするマスメディア活動も著名人が出馬することについての話題性を掻き立て、それがさらに公衆の話題性へと幾何級数的に拡大することも大きな要因であろう。

まさに、政治ショーは、テレビなどの映像メディアが織り成す現代民主主義政治の大衆イリュージョンといえよう。

背景には政治への無関心とあきらめ
どうしてテレビ著名人が政界へ進出するのだろうか?何かを成し遂げたいと思うタレント自身の気概もさることながら、そのタレント性を買う政党、マスコミの商業主義的なゴシップ活動もタレント政治家を推す要因になっている。そして何よりも、国民の「誰を推してよいのかわからない」という政治活動や政治問題への無関心が大きく作用しているようにも考えられる。

また、大衆は付和雷同で常に情緒不安でありうるからこそ、話題性あるタイムリーなトピックにすぐさま反応するのである。メディアが一方的にタレント政治家を話題に取り上げると、すぐにそっちへ大衆の視線は向かう。そして、タレント議員がスキャンダルを起こせばすぐに大衆の敵になってしまう。

しかしながら、よくよく考えると、われわれの身の回りで解決してほしい喫急の政治的課題を挙げろといわれると返答に困るのが事実ではなかろうか。消費税率の引き上げや年金不安、格差社会といわれても、今の政治家にはどうせ何もできないという大衆の倦怠感に近い「あきらめ」も大きく作用しているように考えられる。大衆の無関心の裏側には、この大衆による「あきらめ」があって、その「あきらめ」を生み出す要素こそが、変わらぬ日常への「退屈」やある種の言葉にできない漠然とした現在の生活に対する「不満」なのかもしれない。

人は、大きな不満や退屈、鬱屈の中において大きな変革を求める傾向があることは直感的に理解できるところかもしれない。

しかしながら、物質的に恵まれた現代社会において、どういう変革により、どういうよりよい未来が切り開けるのかわからないというのも本音としてあるかもしれない。そして、実際に、そんなよりよい未来なんてあるのかと疑問を抱いているのが今の大衆心理の真相かもしれないのだ。この大衆の疑問こそが、大衆の「あきらめ」の実相なのではなかろうか。

あきらめが生み出す政治の行方
物質的に恵まれた現代社会において、多くの人々が自由な職業選択と人生設計ができるようになり、多様な価値観や考え方を持つ人々が生まれた。高度成長期の日本では、線形的な未来像、すなわちよりよい明日の生活が約束された時は、政治への関心もそこそこ高かったのかもしれないし、実際に生活の向上が「政治の力」として見えたのかもしれない。

だからこそ、当時の学生たちは社会主義運動をはじめとした政治活動に見せかけた学生運動に燃え、そして燃え尽きたのかもしれない。(我々の先輩の話のなかには、当時の学生運動は政治活動ではなかったと回顧する向きがある。)

政治は生活を変える原動力に思えた幸せな時代がとうに過ぎた今となっては、そんな無益な学生運動に燃えた世代の気持ちはこれっぽっちも理解されない。こうしたかつて見た政治への情念、思い、感情が実は幻想であったと気づき始めたころから、この大衆の「無関心」が生まれたといえようし、実際に豊かに見えた生活がただの泡(バブル)だと気づいた90年代前半のバブル崩壊以降と、政治の政治ショー化が進んだ時期とが見事に重なっているのも、これまでの文脈からして偶然ではあるまい。

我々20代の世代は、この無関心、無気力の只中にいて、ただただ無気力、無関心の只中を漂うしかないものかと途方にくれている実に刹那的で、滑稽な政治態度を表明しているように見える。一部はオウム真理教などの新興宗教へ逃げ隠れ、政治参加はおろか、働きもせずただただ引きこもるニート、ホリエモンに代表されるIT、金融ビジネス、人材派遣などの新興企業へ就職し、ただただ金儲けの職務に励む「ただの会社員」らに共通して言えることは、「今ここに生きることこそが現実であるという思い込み」に縛られた無気力と無関心が根底にあるのではなかろうか。

夢? そんなのあったっけ? 希望? 馬鹿な!とにかく会社へ行こう!仕事しよう! 将来?そんなのわからない? とにかくご飯を食べよう! そのために働く。それのどこがおかしい? あたりまえじゃん?!

まさにこんな精神世界である。ここに政治の入り込む余地はあろうか?ない!政治は無用の長物になってしまったのだ。そしてこれこそが、皮肉にも我々先人の見た、政治の力を借りずに自分たちの思いで生活が自由に設計できる、物質的貧しさから開放された「幸せな未来像」なのかもしれない。 

答えは見えた
大阪府知事はタレント弁護士に決まるだろう。

面白いじゃん。やらせてみたら? それが大きな理由となりうる。 

政治は、真摯で恵まれない人々の希望をかなえる公器ではない。大衆のちょっとした話題づくりを生み出すマスコミや、そのマスコミ活動の補完として君臨する大手広告代理店の欲深い商業主義の餌食になってしまったのではなかろうか。

21世紀の未来に、我々の生活をよりよいものにする政治は必要ないのかもしれない。何故なら、今の生活に十分満足しているからだ。John Kenneth Galbraithがかつていったように、我々は今まさにThe Culture of Contentment、「満足の文化」の只中にいるのだ。

満足の文化が生み出す政治において、強力なタレント性を秘めた指導者が好まれる。何故なら、大衆にとって今の満足という退屈をしのぐには十分だからだ。だからこそ、小泉純一郎が好まれたのではなかろうか。また、かつてのヒトラー、ムッソリーニーを生みだしたドイツ、イタリアの政治の背景にあった大衆心理もそのような、「満足という退屈」、「退屈のなかの漠たる不満」といったものであったのかもしれない。

つまり、大衆は常にとんでもない強力な指導者を生み出す主因ともなりかねない怖さを秘めていると言えよう。そしてこれこそが実は、隠された解決されるべき現代の発展した資本主義社会が抱える大きな政治課題のひとつなのではなかろうか?

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