痛ましい記憶である。6月20日毎日新聞の記事からである。
山口県光市のアパートで平成11年4月、会社員、本村洋さん(30)の妻子が殺害された事件で、殺人罪などに問われた男性被告(25)=事件当時(18)=の上告審判決で、最高裁第3小法廷(浜田邦夫裁判長=退官、上田豊三裁判長代読)は20日、無期懲役の二審・広島高裁判決を破棄、審理を同高裁に差し戻した。検察側が死刑を求めて上告していた。
最高裁によると、・・・12年3月の一審・山口地裁判決と14年3月の2審判決は「犯行態様は計画的とまでは言えない。年齢も(死刑が適用できる)18歳になって1カ月しかたっておらず、内面の未熟さが顕著で、更生可能性がある」と判断し、死刑を選択しなかった。
一、二審判決によると、被告は11年4月14日午後2時半ごろ、光市の本村さん方で妻、弥生さん=当時(23)=の首を両手で絞めて殺害。また長女、夕夏ちゃん=同(11カ月)=を床にたたきつけるなどした上、ひもで絞殺した。
本村洋さんの悲痛な叫びをメディアで見るたびに、「なぜ、こうも自分の性欲を満たさんがためにレイプしたクソ野郎を守らなければならないのか」と考えさせられる。悲しくも、辛い現実に一人果敢に立ち向かう本村さんの姿は、「もし、自分が本村さんの立場に立たされると・・」と思い、決して他人事には思えない。
レイプし、殺したことを反省しない被告。むしろ、何がいけないのかと開き直る被告の供述には何ともいえない。「目には目を、歯には歯を」というハンムラビ法典の通り、このイカレ野郎を公衆の面前で羞恥にさらし、八つ裂きすることは出来ないものかとも思う。・・・
ゲーム理論の分野で有名な「しっぺ返しの戦略」(tit-for-tat strategy)というものがあるが、これを私なりに解釈すると、その含意は、善良な市民を守るには、悪行に対して、悪行をもって制することが、悪行のないよりよい社会を作る最良の方法と言えそうである。
・・・殺人を犯す者は、死刑をもってこれを制する。これは社会正義を守るためではなく、普通に暮らす善良な市民を守るためである。したがって、死刑の模様は公衆の面前で公開され、これから殺人を犯そうとする者に見せしめ、抑え、これから殺される人を守るのである。
私は死刑制度に賛成である。私は死刑は殺人を抑止し、残虐な殺人のないよりよい社会を築く効果があると思っている。殺人がなぜいけないのか? それは、自分は殺されたくないからである。自分が殺されたくないのであるなら、相手も殺されたくはないはずである。自殺願望者を除いて・・・。
死刑は人道上問題であるとする人権団体に対して理解に窮する。人権を侵す死刑制度は文明の後進性の現れだというが、人権を侵す行為を許す社会こそが後進性の現われだと思う。
人権を侵す人間の人権を守る。一方で、人権を侵された人間の人権が守られない。何か矛盾してはいないだろうか。たとえ人権を侵した者が未成年であっても、自分の人権は侵されたくはないはずである。 ならば、殺人を犯した者が未成年であろうと、すべての殺人には殺人をもってこれを制しよ。ならば、多くの善良な市民の人権が守られよう。
死刑は人権を守る方法として、最悪ではあるが、これまで考えられる中では最良の方法ではないだろうか?
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