学習塾で仕事をさせてもらう中、改めて私はよい教師について考えるようになった。 学習塾は公立の学校とは違い、利益を上げるため、まずなによりも顧客(生徒)を集めなければならない。それゆえ、学習塾では生徒への「教育」というよりも、生徒の成績を上げるため、あるいはいい学校に入るための「テスト勉強」に力が入れられる。学習塾の業績が、生徒がいかに高い成績を収め、よい学校、名門校に入るかにかかっているからだ。
しかしながら、近年の「少子高齢化」社会において、以前に比べ、いい学校は入学しやすくなっている。よって、さほど勉強する必要はなく、大学へはもはや誰でも入学できる。こんな時代において、学習塾の役割は、生徒にテストに合格する技術をつけることから、「普段の学習の予習、復習」をさせることにシフトしているようである。これからの学習塾は、生徒を獲得することが難しくなると予想され、競争も激しさを増すものと考えられる。
学習塾を取り巻く環境は厳しくなる中、学習塾の最も重要な経営資源である「教師」はいかなる資質が求められるのだろうか? 話がわかりやすく、面白く、飽きさせない人気者教師なのか? 確かに生徒は面白い教師を求めている。しかし、生徒の視点で教師は選ばれるものではないと私は考えている。なぜなのか。
これはおかしな考えかもしれない。商品は消費者に評価されるべきではないといっているからである。しかし、ここにおいても、商品は消費者に評価されるべきでないときがあるのである。それは、商品の特性を知らない消費者が商品を評価するときである。商品はその特性を知る消費者によって評価されなければならない。添加物の多い、おいしいレトルト食品が世の中で高く評価されるようになれば、不健康な国民が増え、社会的観点から見て好ましくない。
同じように、学習塾の内容を知る者、教師の資質を知る者によって、学習塾や教師が評価されなければならない。たとえ、生徒に高く評価される、わかりやすい講義をする教師でも、もしかするとその講義はわかりやすさを求めるあまり、うそとごまかしが多く含まれているかもしれない。実際わかりやすい教科書にはごまかしが多い。論理よりも、直感が重視され、言葉よりも見た目が重視される傾向が強いからだ。これでは、見た目だけで判断し、考えない人間がたくさん増え、選挙においてよい候補者が選ばれないなど社会的に見てもよくないことがあるだろう。
世の中には「わかりやすいこと」よりも、「わかりにくいこと」が多い。生徒はおろか、教師ですらわからないことは多い。生徒が少なくなり、学校へ入りやすくなった今の時代、学習塾はわかりやすい教師ではなく、今の世の中が「わかりにくいこと」だらけであることを素直に教える真摯な教師を求めているように考えている。
学習塾は生き残るため、公立の学校には提供できない補完的な「価値」を提供しなければならない。学習塾に提供できる、最も求められる「価値」は、「わかりにくいこと」と戦う生徒とともに一緒になって戦う教師であり、教育である。これは、公立学校では提供されにくい価値であろうし、幅広く市民の教育に資することを目的とする公立学校とも補完的である。学校では「わかりにくいこと」を教えることは、すごく時間と労力のかかることだからである。
だからこそ、いい学校に入るための技術だけではない、「わからないこと」と向き合う技術の価値が大きくなる。いい学校に入るための技術はもはや陳腐化している以上、世の中いかに「わかりにくいこと」が多いのかを教え、「わかりにくいこと」とどのように向き合い、付き合うのかを教えることこそ、今の時代に最も求められているように思う。
2 comments:
Hmm I love the idea behind this website, very unique.
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Thank you for your constant concern, Mr.or Ms.Anonymous.
By the way, do you understand the Japanese language?
If you like, would you please post your own comments on my opinions? I would like to hear you about what I think and write. And if you are an American or English-speaking person, please point out where I have made some mistake in English.
Pros and cons, any comments are welcome except ones that will hurt or blame someone.
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