Sunday, May 06, 2007

鶴の恩返し

久しぶりに日本語でブログを綴ろう。

私は米国の大学院に入学が決まり、今年8月に日本を発つつもりである。正直その実感はないが、普段どおりにちょっとずつその準備をしている。

私が日本を発ち、米国で勉強しようと考えた理由は以下3つである。

(1) 英語で経済学の研究作法を取得し、専門職(大学教員)に就くこと

(2) 異文化社会での生活を通して、将来のキャリアの可能性を広げること

(3) 人的ネットワークを形成し、見聞を広げること

以上である。

優先順位順に並べたが、(1)については、ほぼ絶望的との見方が支配的である。私が前に行っていた大学の教員は絶対に行くなと言っている。

(2)についても、(1)との関連で大学教員以外の道も模索すべきであるということである。大学教員になるには、論文の投稿実績もさることながら、何よりもそのときに自分に合ったポストが空いているかどうかが非常に重要になる。これは国連やOECDといった国際機関での職員採用と非常に良く似ていて、要は「空き」があるかどうかで、就職できるかどうかが決まる。また、採用側の選好、好みもあり、大学院で博士号を取得したから、大学教員になれるというものではない。

(3)については、将来のキャリアとは直接に関わりがないが、自分のこれからの人生において、米国での長期滞在は非常に有益な経験になるのではないかと期待している。また、米国への留学の動機は、将来のキャリア形成よりもこちらの方である。が、年齢を重ねるうちに、まずはご飯を食べることを考えなければならないことに気がつくのは言うまでもない。
私は当初日本の大学院でしばらくは勉強するつもりではあったが、民間企業でのキャリア形成の必要性をそこで実感し、修士号を得た後、とある民間企業に就職した。しかしながら、今考えると、そこの仕事は自分が真に望んでいた職ではなかった。そこで、私は自分には民間企業でのキャリア形成は分不相応で、他の選択肢を模索すべきであることを実感した。

そこで、高校の教師、予備校の講師など、人にものを『教える』仕事が実は自分にはあっているのではないかと考え、高校教師の教員免許の取得について考えたが、こちらもそのときにポストに空きがあるかどうかが決定的に重要になる。また、私はそもそもこちらの仕事を望んではいない。もしそうなら、最初から教員養成系の大学に入っていたであろう。

一方で、塾の講師は常に採用活動がなされ、今般の中学受験熱もあり、非常にその採用活動は活況を呈している。自分には一番近い、現実的な分野ではあるが、この仕事の『賞味期限』は非常に早いといわれている。つまり、40代も半ばに差し掛かると、塾は雇ってはもらえないのである。塾講師としてのキャリアをいくら積んでも、その年功を塾はあまり評価してくれない。そこでは、なによりも「若い」講師、生徒に「気に入られる」講師が求められているのである。求められるは、老練の教育者ではない。むしろ、口達者な若い営業マンだ。
したがって、壮年の講師は、ごく一部しか評価されない現状である。そのほとんどは、単発的な仕事や家業で食いつないでいるといわれている。

やはり、私には当初目指した『大学教員』の道を再度チャレンジしてみてはと考えた。この道も決して平坦ではない。むしろ厳しさはこちらの方が強い。そのときに、大学のポストに空きがあるかどうかも分からないし、年をとるとそれだけ就職の機会は狭まる。

こう考えたとき、自分に残された選択肢はあまりないことに気づかされる。

しかし私は、教育の価値を信じたいと考えている。これまでの私は、ある意味『教育』に救われてきたのである。私の学校での経験、思い出はあまりいいものではない。ある意味学校という場所、つまり中学、高校、大学は、私にとって地獄であった。しかし、そんな中にも自分を評価してくれる教師や同僚がいたことを書かないわけはない。自分を評価する人は、救いであり、宝であるのだ。

今度は私がその恩返しをしなければならないのである。

米国の大学院への応募の際、推薦状を書いてくださった私の恩師は、その恩返しをすることを私に示唆してくださった。今年3月、その先生は他界されたが、私にはその最後の言葉が印象に残っている。

無謀かもしれない。航路なき航海に旅立つ私を評価する者は誰もいないだろう。


しかし、私は『教育の価値』を信じたい。人を教えることを通して、真の教育的価値の創出・提供に貢献することが、私の天職ではないかと、最近気づき始めている。米国留学は何よりも教育者になるための『修行』であるのだ。

さて、教育とは何か。最後に私の考えを披瀝したい。

それは、人に『機会』を提供することである。人に『チャンス』を与えることである。どういうチャンスか。それは、自分が評価され、その仕事、その人生に誇りが持てるために努力することが許される『機会』であり、『チャンス』である。教育は人に、社会にそういったチャンスの提供することであり、私にはそのチャンスの提供を社会に対してしなければならないと考えている。

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