大学は有用か
「ラーメン好きがラーメン屋を作ったか」
「ラーメン屋がラーメン好きを作ったか」
どっちだと思う、という話を聞いて、物事の「原因を探る」というのが難しいかを考えた。
物理や化学のように、「ジアスターゼがでんぷん」を分解する、という実験室で原因を突き詰めることができないことが社会・政治・経済・疫学において多い。
大学教育が果たして有用か、大学は必要かどうかも似た問題をはらんでいる。
大学という場所
人と群れてると、自分がそこで認められたような気になるし、認められていない気にもなる。
群れているサラリーマン見てると、そんな気がする。一人ひと
りは「いい人」だけど、みんなになると「ダメな人」になっちゃう。自分を「ダメな人」にする群れにいる必要はないと考えた学生は大学を去るのだろう。
自分を「いい人」にしてくれる、または隣にいる人を「いい人」にしたいと思うような雰囲気のある群れ、そんな群れが集まる場所に現代の大学の価値があるかもしれない。
現代の大学の印象
特に私立大に見られる「現代学」「国際学」「心理学」「医療・防災学」「キャリアデザイン」という最近のキラキラネームを見るとき、修士の学位すらない社会人講師が教壇に立つ現状を見るとき、基礎教養が疎かになっていないか、大学の将来には不安を覚える。
大学の勉強が単に「役に立つ・立たない」という問題に還元されているのが、現代の大学が抱える「貧困」だと思う。特に私大では、外部スタッフ(予備校講師など)に外注したりして、「就職予備校」、「専門学校」化しているのが、現状ではないか。
理科系は理科系で、研究開発に携われるのはごく一部で、京大理学部卒でも理研は狭き狭き門である。STEP細胞の小保方博士の裏側では、大量の理系オーバードクター(博士号取得済)がひしめいていることを忘れてはならない。
制度としての「大学生」
結局のところ「大学生」という存在が外食・小売産業の手足となっていたり(ステーキ屋行ったら学生バイトばっかり)、企業も高卒採るんやったら、ある程度管理教育から離れた「大卒」を採った方が、言うこと聞くし、皆そうして「大卒」採るから、私のところも「大卒」採ろうとなる。
大学が要るか要らないかは、ある程度高度な知識にアクセスできる環境を整えておくことは留学生・海外研究者を確保するという外交・安全保障上の問題なり、知的インフラ整備という経済・産業政策の観点からも重要で、個々の「大学生」がまともに就職できるかは別問題。
1000人おったら、1人ぐらい
先端知識で社会貢献できる、リーダー人材が育てば、十分じゃないだろうか。
ある意味、「大卒フリータ」いう存在は制度上出てきた(フリーターいう言葉は80年代後半リクルートが作ったもので、大学設置基準の緩和とかぶってるよう
な・・・)気もする。
大学への評価
大学に入れたから、いい就職ができる。高卒だから、いい就職ができない。
どちらがいいのかは本人次第。ただし、いずれにせよ、「新しいことを学び、考える
力」は必ず必要で、いい就職のための前提条件だ。
「役に立つ・立たない」ということは、大卒者個人の経験や時代背景に依存することが多く、一概には言えない。結局は事後的に決められる問題だと思う。
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